FBでせぇちゃんを探してみましたがやはりいませんでした。自宅と仕事場の行き帰りのほかはどこにも行くこともなくなってきました。このままではせぇちゃんとの運命の邂逅も期待できません。以前せぇちゃんに手紙を書きましたが出すことが出来ませんでした。ここにのっけます。せぇちゃん!もしこれを読んだら連絡してね。
せぇちゃん 元気?
お兄ぃのこと覚えてる?
せぇちゃんが2,3,4年生、僕は24,5,6歳のころ。
もう40年近くが経ってしまったねぇ。
せぇちゃんはもう50歳を超えてるんだ。僕も60歳を超えたじじぃになってるよ。 早いなぁ。
せぇちゃんに黙ってその街を出て行ってしまいごめんね。
せぇちゃんだけでなく、お世話になった坂本さんや棟梁を始め労務者の親父さんたちにも黙って逃げるようにその街を出て行ってしまいました。
故郷を捨てたオヤジさんたちには帰る所はありません。
山谷の外に仕事を見つけるところもありません。
親父さんやせぇちゃんに何といえば良いのか分からなかったのです。
オイルショックの影響で不況がまだ続いている頃、いつもより遅れて手配師の佐藤さんのところへ行ったとき
「あんちゃん来たか、ちょっとこっち、こっち」と手招きして、そばにいる二人の労務者を差し「一緒に行ってくれ」といいます。
「僕来たとこやから後でも・・」と云うと「いいんだ、いいんだ」と肩を叩いて押してくれました。
二人について行きかけると後ろでパンパンと手を叩き「今日はこれでおしまい、もうないよ」と佐藤さんの声が聞こえました。
振り返って見ると、待っていた労務者たちがぞろぞろと思い思いに立ち去って行きます。仕事にあぶれたのです。
ああ、僕はもうこの街にいてはいけない・・・と思いました。
せぇちゃんにモデルになってもらいF30のキャンバスに描いた絵は今も時々懐かしく見ているよ。
ぷっくり肥えたせぇちゃんがまっすぐ僕を見つめてくれます。
あの街を出て4,5年経った頃、入選した絵を見に上野の美術館へ行った後、南千住の商店街から路地を入り「筑波荘」にも行きました。
そこには「筑波荘」はなく新しい民家が建っていました。
せぇちゃんや他の知った顔はありません。
皆んな何処かへ立ち退いていったんだね。しかし、せぇちゃんとお母さんはきっと何処か近いところに住んでいたんだと思う。 靴底を切り抜くお母さんの仕事もあるから・・・。
今では、もしどこかの街でばったり出会ってもお互いに分らないねぇ。
50歳をすぎたせぇちゃん、この40年は軽い知能障害のあった君にとって辛いこともあったやろねぇ。
でも、元気で明るく素直な君はおかみさんにポンポン言われながらもいいお父さんをしているでしょう。
また山谷で飲みたいなぁ。
ぐてんぐてんになって小便臭い路上でひっくり返りたいなぁ。
朝焼けの琵琶湖の空
クロスする朝の飛行機雲